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| ■ 「小学生の私に『逆上がりをしろ』という教師はいないけど…」乙武洋匡が胸を痛めた“見えない障害”の実情とは(Bookレビュー) | 2026. 6. 1新潮社 |
大学生の頃、のちに600万部を超えるベストセラー『五体不満足』を刊行した乙武洋匡さん。その乙武さんが、一人の少年の“告白”に胸を痛めたという。 少年は、『14歳、字を書けない私が「書く」喜びを手にするまで』(新潮社)の著者・朝野幸一さん。「見えない障害」と言われる書き障害をもち、小学生の頃から酷い劣等感に苛まれた経験や当事者の抱える困難を、同書のなかで克明に記している。 「見えない障害」の当事者が教育現場で「努力が足りない」と言われ苦しむ現状に、乙武さんが思うことは――。 「見える障害」の乙武洋匡が知った、「見えない障害」の難しさ 『14歳、字を書けない私が「書く」喜びを手にするまで』を読みながら、私は何度も『五体不満足』を書いた当時のことを思い出していた。生まれつき手足がない自分の人生を、できるだけ明るく、できるだけ等身大に伝えたい。障害者は「かわいそうな存在」ではない。そんなことを、私はあの本で伝えようとした。 だが同時に、この本を読み進めるうち、少し居心地の悪さも覚えた。生まれつき障害者として生きてきた私でさえ、この著者が抱えてきた「見えにくい困難」を、どこまで想像できていただろうか。そんな問いを突きつけられたからだ。 私の障害は、「見える」。階段の前にいれば、周囲に困っていることが伝わる。着替えなど日常生活に介助が必要なことも説明はいらない。もちろん、見える障害には見える障害のつらさがある。好奇の目もある。過剰な同情もある。できないことを勝手に決めつけられる煩わしさもある。 けれども、本書の著者が向き合ってきた障害は、私が抱えてきた困難とはまた別のものだ。書き障害、いわゆるディスグラフィアは、「見えにくい」障害なのだ。 読むことはできる。考えることもできる。ところが、字を書く、漢字を思い出して紙に再現する、板書を写すという場面になると、世界は突然、険しい山道に変わる。周囲から見れば、「もう少し丁寧に書けばいい」「練習が足りない」「やる気がない」と見えてしまうかもしれない。しかし本人の内側では、文字の形を探し、音と意味をつなぎ、手の動きに変換し、間違えないように制御するという、とてつもなく複雑な作業が起きている。多くの人にとっては自動化されている処理を、著者は一文字ごとに手動で組み立て直さなければならない。 「ここまで豊かな言葉を持っている少年が…」学校で強いられた“報われない努力” 本書の魅力のひとつは、その「内側で起きていること」が驚くほど精密に、しかも読ませる文章で描かれている点にある。漢字一文字を書こうとするだけで、頭の中でどれほどの迷路が生まれるのか。黒板の文章を写すだけで、どれほどの時間と体力が奪われるのか。多くの人にとっては「ただ書く」というだけの行為が、著者にとってはとてつもなく煩雑な作業なのだ。そうした事情を知らない周囲の「字が汚い」「遅い」「覚えない」といった言葉が、どれほど彼の自己肯定感を削ってきたことか。 それでも、彼の文章は決して暗く沈み込むことがない。むしろ、随所でクスッと笑わされる。自分の脳内で起きている混乱を、コンピューターにたとえたり、マニュアル車にたとえたり、漢字が書けない過程をまるで漫才のように描いたり。深刻な困難を扱っているのに、読者を重苦しさで押しつぶさない。これは、著者の強さであり、巧さでもある。彼は「字を書く」ことはできないが、「文を書く」ことはできる。むしろ、言葉への感度は高く、文章には知性とユーモアがあふれている。 だからこそ、胸が痛む。ここまで豊かな言葉を持っている少年が、学校では長いあいだ、「書けない子」として苦しんできた。漢字を覚えようとし、カードを作り、語呂合わせを考え、母親とともに膨大な時間を費やす。それでも、昨日覚えたはずの字が、今日には消えてしまう。努力していないのではない。努力しても報われない方法を、延々と強いられていたのだ。 教育現場で万能薬のように扱われる「努力」が、子どもを追い詰めることも 教育の場では、私たちはつい「努力」を万能薬のように扱ってしまう。できないなら練習しよう。遅いならもっと時間をかけよう。汚いなら丁寧に書こう。その言葉が救いになる子もいるだろう。しかし、ある子どもにとっては、その言葉が追い詰める刃になることがある。著者の経験は、そのことを鋭く、そして力強く教えてくれる。 努力にも、正しい努力と間違った努力がある。本書からは、そんな教訓を得ることができる。時代は昭和から平成を経て、令和となった。かつてスポーツ界を中心に蔓延していた根性論も、ようやく科学的な根拠に基づく正しいトレーニングの重要性が認識されるようになってきた。それは教育においても例外ではない。彼に必要だったのは、「できるようになるまで頑張ろう」という根性論ではなく、ICTであり、合理的配慮であり、自分の特性を知ったうえで環境を変えていくことだったのだ。 手で書くことが難しいなら、タブレットを使えばいい。板書が難しいなら、写真に撮ればいい。試験で本来問われるべきなのが知識や思考力であるなら、なにも手書きであることにこだわる必要はない。これは甘えだろうか。逃げだろうか。優遇されてズルい、と批判されるべきことだろうか。 小学生の私に、「逆上がりをしなさい」と言う教師がいるだろうか。「跳び箱をやりなさい」と指示するだろうか。できずに困っている私に、「努力が足りない」と叱る教師がいるだろうか。いるはずがない。それは私の障害が「見える」からだ。しかし、彼のように「見えにくい」障害を抱えている子どもたちは、いまでも教育現場で「努力が足りない」「もっと頑張りなさい」と言われ、苦しめられている。 ここに、本書の最も現代的な価値がある。同じ社会で生きることは、同じ方法を強いられることではない。同じ教室で学ぶことは、同じ鉛筆で、同じ速さで、同じようにノートを取ることではない。その子が何を理解し、何を考え、何を表現できるようになるのか。教育の本質とは、そうしたことにあるべきだ。 教師、保護者、そして読み書きに困難を抱える当事者へ 私は、この本を一人でも多くの教師に読んでほしい。ノートを取らない子、漢字だけが極端に苦手な子、作文になると固まってしまう子、提出物が雑に見える子。そうした子の中には、能力がないのではなく、方法が合っていないだけの子がいるかもしれないからだ。 保護者のみなさんにも読んでほしい。わが子のできなさを前にすると、親は焦る。何とかして「まわりと同じように」と思う。その気持ちは痛いほどわかる。けれども、子どもはすでに限界まで頑張っているかもしれない。必要なのは、さらに背中を押すことではなく、違った方法を一緒に探してあげることかもしれない。 そして、読み書きに困難を抱える当事者にも読んでほしい。あなたが怠けているわけではない。あなたが劣っているわけでもない。いまあなたがいる環境が、その仕組みが、あなたに合っていないだけなのだ。その仕組みを変えてほしいと声を上げることは、決してわがままではない。あなたがあなたの力を発揮するための、まっとうな権利なのだ。 本書は、書き障害について知るための本である。同時に、「教育とは何か」をあらためて問い直す本でもある。子どもの学力を伸ばすこと。必要に応じて、子どもの理解度を確かめること。本来の教育の目的は、いつしか「その子が多数派に合った方法を使えているか」にすり替わってしまっていないだろうか。 この本を読んだあと、教室の景色はきっと違って見える。これまで「努力不足」に見えていた子どもの姿が、「方法が合っていないだけかもしれない」と見えてくる。そのまなざしの変化こそが、教育を変える最初の一歩なのだと思う。 | |